橋本努「テロリズムの弁明-アメリカ批判の力学」

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テロリズムの弁明――アメリカ批判の力学

 

雑誌『情況』20023月号所収.

橋本努

 

 

【破壊衝動の覚醒】

 二十一世紀は最悪のテロ事件によって幕を開けた。911日のアメリカ同時多発テロ事件は、人々の生活を恐怖に陥れただけでなく、私たちの近代的世界がもつさまざまな価値に対して根本的な再検討を迫ることになった。グローバリズム、アメリカニズム、パックス・アメリカーナ、ヘゲモニー、自由、民主主義、多文化主義、西欧文化、世俗主義、等々。近代社会に現れたこれらの理念は、文字通り最悪の手段によってその社会的基礎を揺さぶられることになった。テロリズムの成功による新たな時代への無理やりな突入。世界はすでに、次のステージへと始動してしまった。しかし何が終わって何が始まったのだろうか。私たちは何を捨てて何を携えるべきなのか。そして何を企図し、展望し、何に悲観すべきなのだろうか。

       * *

 

 テロ事件がもたらしたものは、何よりもまず私たちの思考習慣に対する大きな衝撃であり、そしてその背後に潜む破壊衝動の覚醒である。とりわけ、旅客機の激突によるツイン・タワーの崩壊は、人々の破壊衝動を呼び覚まし、その衝動をアメリカに対する批判へと向けさせた。およそ批判者たちの破壊的欲動は、次のように描写されよう。

 

「私も実は、グローバリズムのシンボルであるニューヨークに対して鞭を打ってやりたかったのだ。テロリストたちは、私が臆病でできなかったことを代わりにやってくれた。なるほどテロリストたちは法的に罰せされるべきだが、彼らの成し遂げたことは、私たちの社会に対して重要な問題と批判を投げかけることに成功した。テロ行為は確かに悪いが、アメリカはそれ以上に悪い。そしてそれに追従する日本もまったく醜い。いや、近代自由主義というシステムがすでに悪の原因だ。とくに市場のグローバルな統合は人々を抑圧するものであり、テロリズムを生み出す社会的条件だ。また、事件後にアメリカが打ち出した「テロリズムに対する戦争」は、それ自体がすでにもう一つのテロ行為ではないか。アメリカ主導の戦争は、これを全面的に拒否しなければならない。アメリカはむしろこれまでの傲慢な態度を反省して、抑圧された人々の叫びをしかと受け止めるべきだ。そして私は、アメリカによる世界支配が嫌いである。」云々。

 

しかしいったい、テロ事件が煽り立てた人々の破壊衝動とその叫びは、無垢で粗野なかたちのまま正当化しうるのだろうか。またアメリカが打ち出した「テロリズムに対する戦争」は、はたして全面的に批判しうるものなのか。例えば、アメリカが「正しい戦争」をする可能性はありえないのだろうか。さらに、テロ事件とその後のアメリカの対応に対する批判は、間接的に、テロリズムに対する弁明を与えることにならないのだろうか。

テロ事件とアメリカの対応に対する批判は、アメリカのもつヘゲモニーに対する言論闘争である以上、それは単純素朴な心情倫理に基づくものであってはならない。テロリズムがもたらした衝撃の下では、純粋な心情倫理の叫びは、無垢で粗野な破壊衝動と容易に結びつく。避けるべきは、破壊衝動に操られることであり、いかなる批判の営みも、その背後にあるデーモンを認識した責任倫理の領域へと高められなければならないだろう。政治とは力の行使であり、それはいかなる道徳にも還元されない次元をもつと同時に、本質的に闘争的な倫理と認識を要求する。本稿では、言論に基づくヘゲモニー闘争の準備として、テロ事件後に発生したイデオロギー、とりわけ、テロリズムの弁明論、戦争に対する批判理念としての正義、アメリカ帝国主義政策の是非、という問題について検討したい。まず、テロ事件に対する危険なデマゴギーを検討しつつ、はたしてテロ行為に対する弁明は可能か、という問題を論じる。次に、アメリカが掲げる「テロリズムに対する戦争」というものが、いかなる意味で正当化しうるのか、とりわけ軍事裁判は正当化しうるのか、という問題を検討する。最後に、タリバン政権崩壊後の中東地域をめぐって、アメリカは帝国主義的な積極的介入をすべきかどうか、という問題について考察を加える。

 

 

【デマゴーグたち】

 911日のテロ事件は、さまざまなデマゴーグの発生をもたらした。犯人たちの政治的要求は明確ではなく、代わってさまざまなデマゴーグたちがその政治的要求を代弁した。例えば、富と繁栄のシンボルに対する攻撃、アメリカの政治的・経済的・文化的ヘゲモニーに対する批判、抑圧された者たちの長年にわたって積もり積もった恨み辛みの爆発、先進国に対する決死の抗議、非倫理的な世俗生活に対する警告、自由社会に対する嫌悪、グローバリズムに対する批判、キリスト教対イスラム教の全面対決、いまだ中世的世界を生きるアラブ人たちの近代的価値観に対する敵意、イスラム教ファンダメンタリズムの反乱、アメリカの外交政策に対する根本的な批判、などである。さまざまな解釈の中で、私はとりわけ以下の三つの代弁が興味深く、また危険な説得力をもつように思う。すなわち、ベンジャミン・バーバー氏の「ジハード対マックワールド」、ネイティヴ・アメリカンに言及したクリントン元大統領の講演、そして社会主義革命を今なお掲げる各種左翼誌の主張である。

ベンジャミン・バーバーがフィナンシャル・タイムズに寄せた週末論評(Financial Times 2001/10/20)によれば、今回のテロ事件は、マクドナルド的近代とジハード的反近代という両極の社会の軋轢において生じている。ここで「ジハード」とは、統合されない部族主義の反動から生まれる原理的な衝動であり、あらゆる近代的価値に対して敵対的な憤慨を示すファンダメンタリズムである。これに対して「近代的なマクドナルドの世界」とは、経済と文化における統合的かつ攻撃的なグローバリズムの表象であり、世俗的で画一的な唯物主義によって特徴づけられる。またその思想は、ネオ・リベラリズムの市場イデオロギーに代表される。すなわち、すべての文化を経済的次元に還元し、すべてを商業化して民営化すれば、政治的問題は解決されるという考え方である。バーバーによれば、とりわけ途上国においてこうした近代の統合作用は、信念の絶望を生み出しており、そしてその絶望をテロリストたちが利用しているのだという。市場において私的に行使される力のほうが公的権力の行使よりも望ましいとするグローバリズムの思想(=市場イデオロギー)は、アナーキーの別名であり、テロリズムとはこのアナーキーから生まれた感染症の病気にほかならない。つまり、テロリズムの源泉は、市場のグローバリズムにあるというわけだ。

 これに対してクリントン元大統領は、今回のテロ事件が、とりわけアメリカ人がネイティヴ・アメリカンの人たちを殺害してきたことの代償であると主張する。ジョージ・タウン大学における講演においてクリントンは、約1千人の学生たちを前に、アメリカではテロ行為というものが何百年も続いてきたと述べた。アメリカ人は、無垢なネイティヴ・アメリカンや奴隷たちの多くを殺害してきたのであり、彼らは完全な人間よりも劣るという理由で、土地や鉱物資源に対する所有権を制約されてきた。それだけではない。キリスト社会というものがそもそも、十字軍の遠征(11-13 A.D.)以来、中東社会に対してテロ行為を犯してきたのであり、われわれは今もその代償を払っているのだという(Washington Times 2001/11/08)

他方、社会主義イデオロギーを掲げる三誌は、アメリカの帝国主義的な世界支配のあり方こそがテロ事件の背景にあると批判している。社会主義労働党が発行する雑誌『ザ・ピープル』(the People, vol.111, no.7 October 2001)は、今回のテロ行為を批判しつつも、近代世界におけるテロリズムのルーツが、資本主義システムの中に埋め込まれていると主張する。資本主義システムは、一方では文明化を扇動しつつも、他方では人々を野蛮さへと駆り立て、テロリズムのルーツを生み出してきたというのである。さらに雑誌『ザ・インターナショナリスト』(The Internationalist, no.12, Fall 2001)は、アメリカ帝国主義を打倒し、イラクとアフガニスタンを擁護すべきだと主張している。アメリカはこれまで、広島・長崎への原爆投下、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争などにおいて、総計数百万人の一般市民を殺害してきた。そして今回は「テロリズムに対する戦争」を掲げることによって、アフガニスタンにおける抑圧された一般市民を恐怖に陥れている。こうした事態を解決するためには、なによりもアメリカがアフガニスタンから撤退すべきであり、アフガニスタンでは社会主義勢力が人々を解放・介助しなければならない。とりわけ1980年代以降、アフガニスタンにおいて女性の解放をもたらしてきたのは親社会主義の政権である。一九七八年にアフガニスタンで賃金労働に従事していた女性は5千人にすぎなかったが、一九八〇年代の終わりには245千人の女性労働者が生まれ、その中には11千人の教師も含まれていた。アフガニスタンにおいて女性を解放する力は、社会主義の政治的施策にある、というわけである。これに対して、革命的マルクス主義を掲げる『インターナショナル・ソーシャリスト・レビュー』(International Socialist Review no.20, November-December 2001)は、一風変わった批判をしている。すなわち今回の事件において、資本主義の体制を破壊するというその目標は正しいが、手段としてのテロリズムは自滅的である。マルクス主義が掲げる革命的社会主義の方法は、一部の少数派による個人主義的なテロ行為ではなく、労働者階級を中心とする大衆的な運動でなければならない。トロツキーが述べたように、「テロ行為がいっそう効果的になればなるほど、それは、大衆が自ら団結しまた教育するという関心を挫いてしまう。」結果としてテロリズムは、革命の理想に対する幻滅とアパシーをもたらすにすぎない。今回のテロ行為は、結局のところブッシュ政権の帝国主義的な軍事政策を促進するという結果を招いてしまったのであり、革命的であるどころか反動的でさえある、というのである。

いずれの批判も、テロ事件の目的や原因を興味深い角度から解釈しており、吟味するに値する内容を含んでいよう。しかし、テロリズムの目的(資本主義と帝国主義への批判)や手段(恐怖と殺人)に対して、肯定的な弁明を与えることは政治的・道徳的にみて正しいことであろうか。節を変えて、テロ事件に対する弁明の正当性について検討してみたい。

 

 

【テロリズムに対する五つの弁明】

 例えば今回のテロ事件を、グローバリズムに対する重大な警告という観点から考察してみよう。なるほどニューヨークを中心とする資本のグローバルな動きは、途上国の経済を危険にさらすだけでなく、その成果を無言のうちに搾取するという構造的な問題を抱えている。過激な反グローバリストたちの主張に従えば、途上国に対しては資本よりもまず先に民主主義を導入すべきであり、世界経済は分配的正義の観点から民主的に制御されなければならないという。そしてまた、今回のテロ事件は、手段こそ正当化できないとは言え、グローバリズムの動きを止めるために貢献したのであり、人々の不満をすでに代弁している。そこで私たちがなすべきは、テロ事件が生み出した政治的チャンスを利用し、それに便乗して、グローバリズムの動きに歯止めをかけることである、ということになるだろう。

 しかしこうした反グローバリズムの戦略は、結果として、テロリストたちの目的と狙いを共有することにならないだろうか。なるほど反グローバリストたちはこれまで、言論の上では勢いのあるグローバリズム批判を展開してきたが、その実効的な成果は少なかった。これに対してテロ事件は、グローバリズムの趨勢を大きく転換するだけの威力をもっている。実際、その威力を利用してはじめて反グローバリストたちの言説に実効性が与えられるとすれば、それはテロリズムに弁明を与えるような、倫理的にみて問題をはらんだ効果をもつことになろう。反グローバリズムの要求は、テロリズムに寄生する政治的脅しとして解釈されるかもしれない。

もっとも別の観点からみるならば、逆の問題が生じている。すなわち、われわれはテロリズムに断固反対するために、グローバリズムに賛成しなければならないのか、という問題である。はたして、反テロリズムを主張するためには、それに結びつく他の主張をすべて放棄しなければならないのだろうか。なるほど、テロリズムを道徳的に正当化することはできない。このことに疑いの余地はない。しかし、道徳的に弁解できないことに対して、イデオロギー的な弁明の余地があるのかもしれない。ここではテロ行為に対する五つの弁明について、考察してみたい。

 第一の弁明は、今回のテロ事件を最終的な訴えの手段として位置づけるものである。世界にはアメリカの政治的・経済的支配によって過剰な抑圧を受けてきた人々が多く存在する。そうした人々はこれまで、あらゆる正当な政治的手続きを用いてアメリカに抗議してきたが、しかしその要求はすべて認められなかった。そこで今回、抑圧された人々はやむにやまれず、決死の抗議としてテロ事件を起こしたのであり、なるほどテロ事件が道徳的に正当化できないとしても、その背後にある人々の政治的要求は正当に評価されなければならない。テロ事件を起こした組織がたとえ一部の過激派であるとしても、その訴えは、抑圧されてきた人々の政治的訴えを代弁しているのであり、その政治的要求は正当に認められなければならない。つまり、道徳的に弁解の余地がないことにも、政治的な弁明の余地があるのである。

 さて、この弁明をどう考えるべきであろうか。まず、テロ行為が「最終手段」であるという捉え方は、疑わしい。テロリストたちにとってテロ行為は、「最初にして唯一の手段」であり、彼らはテロ行為を繰り返すことしか手段をもたない。またさらに、テロ行為はさらなるテロを呼び起こすためのモデルを提供する。政治とは繰り返しの技術であり、テロ行為もまた繰り返しを呼び起こす政治である。したがって、今回のテロ行為に対して「最後」とか「最終」という時間的な位置づけを与えることはできないであろう。今回のテロ事件もまた、反復の中の一部として起きたのであり、テロ行為が反復されるという事態こそ、問題にされなければならない。

また、テロ行為に対して、「決死の抗議」という意味を与えることは、すでに政治的に誤った態度であろう。なるほどテロリストたちの主観的な意図や行為の意味を「理解」することは、理解社会学の重要なテーマでありうる。そして実際に、テロリストたちは、アメリカを中心とする近代西欧社会に対して決死の抗議をしたのかもしれない。しかし、行為に対するそうした理解を示すことは、政治的にはテロリズムに対する間接的な擁護を与えてしまうだろう。石油産出国に対する文化理解が「文化的相対性」の理念の下に現実の独裁政治を容認する効果をもちうるのと同様に、テロリストおよびその組織に対する理解は、その背後にある悪に手を貸すことになる。政治的に言えば、行為を理解しつつそれを表明しないことが重要な場合がある。理解と弁明が容易に混同される状況においては、理解社会学の名のもとに不当な政治的弁明を与えることを避けなければならない。

 第二の弁明は、テロリストたちの代弁する人々(アラブ諸国の被抑圧民)が弱き存在であり、その弱さゆえに彼らはテロという手段に訴えざるを得なかったのだ、という弁明である。なるほど、アルカイダというテロ組織は強力であるかもしれないが、その背後にいる被抑圧民は、集団として自らの政治的要求を主張するだけの資源と力をもっていないのであり、政治的には弱き民である。彼らは独裁制の下で、多くの政治的行為を禁止されている。非暴力による政治的訴えや、ストライキや大規模なデモンストレーションなどを行うことはできない。被抑圧民を自国内で政治的に解放しようとする運動はすべて、挫かれている。そうした状況下では、解放の政治家は、アメリカという世界権力に対して暴力的な訴えをするしか手段がないであろう。解放の政治は、イスラム諸国の被抑圧民を他国の外圧と干渉によって解放させることであり、テロ事件はアメリカの反動的干渉を呼び起こすための呼び水であるという点で、その手段を正当化することが可能である。

 さてこの弁明をどう評価すべきであろうか。まず、テロリストたちは被抑圧民を組織化したわけでなく、そうした人々の政治的解放要求を弁明したわけでもない。テロリストたちの利害と被抑圧民の利害に密接な政治的つながりは存在しない。また、テロリズムによる政治的要求は、もしそれが承認されるならば、そこから今後、恐怖を権威化した政治体制が生まれる可能性がある。かりに彼らの要求が正当なものであるとしても、その要求をテロ事件が起きた後に認めるならば、テロリズム全体を正当化してしまうことになる。例えば今後、環境保護を要求する「環境テロリズム」や、軍備廃止を要求する「平和テロリズム」などの行為が起こるとすれば、社会はなるほど全体として理想的な方向に向かうとしても、それは恐怖に基づく政治の中で進行することになろう。いったいわれわれは、テロル(恐怖や脅し)の下で理想社会を築くのか、それともテロルと戦いながら非理想的な社会で暮らすのか、という究極の問いを突きつけられることになる。これに対してわれわれは、テロ行為に基づく理想社会の構築は容易に破壊されうることを認識しなければならない。そうした社会運営は、政治における権力行使の正当性を不安定なものにしてしまうであろう。

 第三の弁明は、テロリズムとは最終的訴えでも可能な唯一の手段でもなく、普遍的な政治的手段であるというものである。現実の社会では、だれもが多かれ少なかれ、テロルという手段を使っている。恋愛や取引といった個人レベルの営みであれ、学校や会社といった組織レベルの営みであれ、国家対国家という大規模組織の間の関係であれ、人間はこれまでテロルがもつ効果を巧みに用いてきた。原爆を用いたアメリカは、すでに大規模のテロ行為を犯しているにもかかわらず、法的な処罰を受けていない。またおよそ愛と戦争の名のもとではすべてが許されてきたのであり、もっとも効果的なテロは、それ自体を正当化することに成功してきた。愛とは詐欺であり、戦争とは残忍さであり、政治とは恐怖である。誰もが政治的な恐怖を用いている以上、今回のテロ事件も弁解可能である。およそテロ事件には、その背後に歴史があり、とりわけ以前にテロリスト組織の一員が殺害されたことが引き金になっていることが多い。テロルとその撲滅には、始めも終わりもない。テロルに対する対抗はすでにテロ行為なのであり、問題はそれを正当化するための駆け引きだ。必要なことは、テロルに対して「政治的正当化」を与える闘争を試みることであり、それは常に、多かれ少なかれ達成可能である。

 この弁明をどう考えるか。およそあらゆる政治がテロ行為であるとすれば、政治における善悪の理念は成立しえないだろう。よりよい政治、より正当化しうる戦争というものは、成立しえないことになる。しかし私たちが政治的策略という名のもとに「政治的判断力」そのものを放棄するならば、世界はテロリズムの勝利を許すことになるであろう。およそ政治が悪なるデーモンの受肉化であるとしても、私たちは、その悪の中で最善のものを選ぶという判断力を持たねばならない。なるほど善や正義の理念は多様であり、またその信憑性はメディアによってゆがめられるというのも事実である。しかし政治に対する批判的判断は、それ自体がすでに政治闘争であり、闘争の中において善と正義の可能性を開示させることこそ、人々の営為に求められているのではないか。すべての政治はテロルだという主張が問題をはらむのは、政治的判断力の陶冶そのものを放棄してしまうという点にあるだろう。

 第四の弁明は、「イノセント(無罪潔白)」という概念に関するものである。マクロ的な政治的紛争の観点から見た場合、一般市民は総じてイノセントな人であり、紛争に巻き込むべき対象ではないとみなされる。イノセントな人々を殺害することは、政治的にも道徳的にも重い罪である。このことに疑問の余地はない。しかし今回のテロ事件の場合、犠牲者となったのは、必ずしも完全にイノセントな人々というわけではない。アメリカに暮らす人々はすべて、国際的な政治経済システムにおいて、途上国(とりわけアラブ諸国)に対する政治的抑圧からさまざまな恩恵(とりわけ石油)を受けている立場にある。彼・彼女らは、実際にはすでに、道徳的にみて汚点の残る果実を享受しているのであって、まったくの潔白というわけではない。もちろん、テロ行為による殺人は道徳的に正当化できるものではない。しかし政治イデオロギーの観点からみた場合、その背後にある抑圧の現実は理解できるものであり、また理解しなければならないものである。そのかぎりにおいて、テロリズムの「要求」は政治的に弁明可能である。

 これはどうであろうか。なるほどイノセントの概念は、それ自体が政治的に構成されたものであり、政治を見る角度によって、現実に対する評価は分かれるであろう。今回のテロ事件は、イノセントという概念について複雑かつ根本的な問いを提起していることに間違いはない。問題は、テロ行為が道徳的に正当化できないと表明しつつも、内心ではそれをこっそり賞賛してしまうような、道徳的ジレンマの存在である。すなわち、誰もが多かれ少なかれ、内心では世界貿易センターの崩壊に共振したのであり、その狂気の感情は、テロリストの行為を欲動的なレベルで肯定する際の根源的な動力になっている。しかし、アメリカ人を道徳的に批判する態度は、それがテロ事件との関係において表現されるならば、やがて悪意のある政治を生み出すに違いない。それは道徳的にみて汚点のある国民を抹消してかまわないとする無差別殺人の可能性をはらんでおり、まさに「友好の政治」を放棄する契機となりうる。今回のテロ事件に限って言えば、感情的なアメリカ批判を、いったんは押し殺すことが品位あるマナーであるだろう。アメリカ批判の感情は政治的に動員され、その意図せざる結果として、テロリズムの政治的要求を正当化することに結びつくからだ。この「意図せざる結果」に対して覚めた理解を示すことこそ、政治的に重要な態度ではないだろうか。

 第五の弁明は、テロ行為よりもその後のアメリカの対応のほうがもっと悪い、というものである。とりわけイギリス・アメリカ・北部同盟軍によるタリバン軍への攻撃は、アメリカにおけるテロ事件で亡くなった市民よりもすでに多くの死者を出しているのであり、何よりもまず責めるべきは、アメリカの報復テロ行為である。アメリカにおける今回のテロ事件では、死亡者の数は相対的に少なかったのであり、アメリカはこれ対して、過剰に反応しすぎている。タリバンへの報復行為および監視システムの強化は、市民的自由の理念を侵食するものであり、道徳的にも政治的にも許しがたい。テロ行為に対して私たちがなしうる唯一の応答は、アメリカがこれまでの外交政策を見直すということであり、テロリズムの背後にある政治的要求を再検討することである。それ以上のことは道徳的・政治的に正当化しえない。ある意味でテロリストたちは、私たちの生活と社会枠組みの全体に対して、道徳的・政治的な再検討を迫るという使命を持っていた。彼らが示したことは、高貴な使命感を持って生きることの道徳的優越性であり、世俗的でだらしない生活にたいする根源的な問い直しである。

 さて、この弁明をどう考えるか。論点は二つある。一つは、報復戦争の正当性の問題であり、もう一つは、世俗的愚行に対する道徳的な擁護という問題である。前者は、はたして戦争において正しい戦争と不正な戦争の区別はできるのか、という問題であり、言い換えれば、アメリカの反応が過剰でも過少でもないような反撃戦争はありうるのか、という問題である。これに対して後者は、果たして道徳的に劣ることがその優越性をなぜ主張しうるのか、言い換えれば、世俗主義の下における愚行や欲望というものが、なぜ道徳的に評価されなければならないのか、という問題である。どちらも根源的かつ困難な問題であるが、本稿では前者の論点に焦点を当てて考察をすすめたい。

 

 

【正しい戦争(Just War)は可能か】

アメリカが掲げる「テロリズムに対する戦争」は、いかなる意味で正しい戦争であると言えるのか。アメリカ国民の多くは心を痛めながらもアメリカのアフガン攻撃を容認してきたが、しかしアメリカがこの戦争に勝つことができるとすれば、それは「正しい戦争」を貫徹できる場合においてのみである。したがって論理的には、正しい戦争の可能性というものが示されていなければならない。

戦争は、対象国に死の恐怖をもたらす点でテロリズムの一形態たりうるが、テロリズムは明確な政治的要求(例えば領土の征服)をもたないかぎり戦争ではない。なるほど、今回のテロ事件を「戦争行為」と認定しうるかどうかは、解釈の余地が残る問題である。仮にテロ事件が戦争行為ではないとして、アメリカがテロリズムを撲滅するための戦争を開始することは正当化しうるだろうか。また逆に、今回のテロ事件があらたな戦争の開始であるとして、あるいはそれが依然として継続している「イスラム対西洋」の戦争の一契機であるとして、これに対する報復戦争は正当化しうるだろうか。正当化しうるとすれば、それはいかなる正義の理念に基づくのであろうか。正義をめぐって、ここでは四つの立場、すなわち、反戦/平和主義的アプローチ、法律的アプローチ、軍事的アプローチ、および軍事限定的アプローチについて、検討してみたい。

1.反戦/平和主義的アプローチ:反戦論者や平和主義者は、戦争の正義という理念を否定する。彼らは戦争行為に正義を認めず、それを最小限に留めるべきだと主張する。この見解に従えば、タリバン政権に対するアメリカ軍の爆撃は容認しえない。一般市民を巻き添えにする爆撃は、いかなる意味においても正当化することはできないからである。

なるほど、反戦論者や平和主義者たちの政治的活動は、道徳的・精神的に人々を鼓舞し、また軍部の強硬な態度をやわらげるという政治的影響力をもちうるであろう。キリスト教徒とりわけクエーカー、ガンジー主義者、および仏教徒たちにその精神的な代表をもつ平和主義や反戦運動の主張は、つよい精神的メッセージをもっている。この点において、平和運動の意義は認められる。しかしアメリカではこれまでのところ、テロ事件後の平和運動は大衆の共感を勝ちえていない。反戦/平和主義的アプローチは、なるほど戦争における道徳的規律の要求として効果を発揮するとしても、テロリズムに対する対処法をもたないかぎり、正義の要求としては理想主義的である。それはむしろ理想的な善の要求であり、「過剰でも過少でもない戦争」という正義の要求に関しては、実効的な基準を欠いている。テロ事件以降の平和運動は、たんなる「戦争反対」運動ではありえないであろう。長期的に言えば、平和運動は、パレスチナ自治の問題、エルサレムの国際的統治、そしてグローバリズムがもたらす所得格差といった問題に外交的な手を打つことを求められている。(グローバルなテロリズムに対処するための平和運動は、中東諸国に対して介入政策を施さなければならず、そのためにはアメリカの積極的な責任遂行が求められているのではないか。この問題については次々節で検討する。)

2.法律的アプローチ:法律的アプローチは、テロ事件の犯人たちに対して法律上の正義をもたらすことこそ正義であると考える。国際条約にもとづけば、今回のテロ事件の犯行者たちを把握するために国際的な協力が求められているものの、その後の起訴と告発については、諸国の裁判所にゆだねられている。ただし正規の司法体系外での裁判は、国連の権威の下に裁判を遂行することも可能である。国連にせよ諸国の裁判所にせよ、公正な裁判を施行することは、戦争行為に歯止めをかけ、苦痛と破壊とそれに伴うコストを回避するために不可欠である。このように法律的アプローチは、裁判の公正な実施を要求する。

法のもとの正義という理念は、しかし、今後起こりうるテロリズムに対して先行的に対処するものではない。将来の不幸と災害を予言する「終末論」的なテロリズムは、かつてのナチズムをもたらすような「社会不安」を生み出している。法律的アプローチは、こうした社会不安に対処する理念としては効果的でない。また法律的アプローチにしたがって犯人たちを公開裁判にかけるならば、かえってビン・ラディンやその組織に対して同情や共感を呼び起こし、法的処罰は「受難」とみなされ、ビン・ラディンを神格化することに資するかもしれない。その結果として、テロリズムはさらにいっそう過激化するかもしれない。また911日のテロ事件に関しては、国際法廷の下では証拠不十分なために、テロリストたちを処分できないということも起こりうる。ビン・ラディンの陰謀そのものは、死刑に値する罪ではないとみなされるかもしれない。安全保障理事会のメンバーすべてが死刑に賛成するとはかぎらないからである。したがって法律的アプローチのみでは、アルカイダやその他のテロ組織が今後起こしうるテロ行為に対して、先行的抑止の効果をもたないであろう。

実際問題として、アメリカが国連に基づく裁判を受け入れる可能性は低い。アメリカは自国の防衛のために、戦争の主導権を国連などの上位機関にゆだねないであろう。このことは今後の世界秩序に大きな問題を残すであろうが、そもそも国連がこの種の国際的な危機に対処しうる資源と権威と意志をもっているかどうかは、現時点では疑わしい。国連は国家間の戦争に対する対処法をもっているが、テロ戦争に対する対処法を確立してはいない。国際テロ組織アルカイダとタリバン政権の関係は必ずしも明確なものではなく、またビン・ラディンとテロ事件の関係者も明確に立証されたわけではない。すべてが不明瞭な中でマス・テロリズムが起こるという事態に、国際的な組織は合意しうるだけの対処法をもっていないのではないか。もちろん長期的な観点からすれば、グローバルなテロリズムに対する対処法を国際的に確立していくべきであろう。しかし短期的かつ帰結主義的にみれば、国際的な法的正義の理念は、テロ事件に対処するためにはなお不十分である。問題は、法的正義の理念がいまなお不十分な基準に留まるという点にある。そしてそこに、軍事的報復行為を正当化する戦争の余地が生まれている。

3.軍事的アプローチ:平和主義や立法主義とは異なり、軍事主義は、今後起こりうるグローバルなテロリズムの危険性を過大に見積もり、軍部の意義と役割を強調する。軍部の役割は、世界に正義をもたらすことであり、テロリズムを撲滅するためのいかなる武力行使も「正義」の名のもとに辞さないという態度を示している。戦争は、テロ行為に対する報復措置であると同時に、その予防措置でもある。報復と予防は、正義の一部として正当化されうる。軍事的アプローチはおよそこのように、反テロリズム戦争というものが正義たりうると主張する。

しかしテロリズムに対処するために軍部へ依存することは、かえってアメリカ人や他国の人々の安全を脅かし、民主主義の条件を損なうことになるかもしれない。監視の強化や政治的表現の自由に対する制限は、民主主義に対する大きな制約となる。また、軍事の強化それ自体が、軍事産業に依存する官僚主義的・権威主義的国家体制を生み出す可能性も大きい。

さらに、軍事的アプローチは、テロ事件の犯人をどのような範囲に絞り込むのか、という問題を抱えている。例えば、アルカイダとつながりのあるハマスの組織はどう処分されるべきであろうか。およそ国際的なテロ組織は、中心を欠いたネットワーク組織という性格をもつ以上、犯人探しの範囲はつねに問題を抱えている。アメリカがあらゆるテロ組織を撲滅しようとするならば、テロリズムとの関係が噂される20か国以上の国家を対象に軍事的手段を講じなければならないだろう。例えば今後、アルカイダの組織を撲滅するために、イランのサダム・フセイン政権を打倒することは正当化されうるだろうか。またテロリズムの温床を抹消するために、中東諸国の独裁体制をすべて打倒すべきだということになるのだろうか。軍事的アプローチにもとづいて戦争の正義というものを極限的に追求するならば、政治的に大きなリスクを背負い込むことになる。国内の世論や諸国の態度は、およそ移り変わりの激しい要因である。そうした条件の下で合理的な戦争戦略を立てることは容易でない。アメリカ政府の国内的・国際的支持が低下すれば、国際的なテロ組織はいっそう活動しやすくなるだろう。したがって帰結主義的に考えるならば、正義の極限的追求は、アメリカの利益にとって自爆的でさえある。

平和主義のアプローチが現実主義的ではないのと同様に、軍事的アプローチもまた現実主義的ではない。およそ戦争の範囲を拡大することは、最終的には、反アメリカニズムの社会的運動に拍車をかけることになる。また戦争行為は、歴史に悲惨な苦しみを残すのであり、私たちはこれをできるだけ避けなければならない。

 4.軍事限定的アプローチ:そこで、戦争の目的と手段を限定するような正義の可能性について考えてみよう。軍事行為を限定するためのもっとも単純で説得力のある正義の基準は、一般市民の殺害を量的に制約することである。量的に言えば、テロ事件において亡くなった市民は約三千人であり、アメリカのアフガニスタン攻撃においても、同程度の一般市民を巻き添えにすることは仕方ない。しかしそれ以上の犠牲者を出すならば、それは報復的正義の理念に違反するであろう。量的アプローチはおよそこのように考える。この発想は、なるほどアメリカ人の報復感情がもつ「平衡感覚」に訴える点で説得力をもつ。しかし量的発想は、今後起こりうるテロリズムに対する対処するための効果的な基準ではありえない。テロリズムに対する戦争は、テロリズムの抑止に関する明確な目的と目標をもたなければならない。戦争における正義は、犠牲者の量ではなく、具体的な統治の目標に関して人々の合意を得ることにある。戦争においては、合意に基づく正義という理念が一定の意義をもちうる。

アメリカが掲げる「テロリズムに対する戦争」というスローガンは、なるほど戦争のために世論を動員する際に役立つとしても、しかしどこまで報復や戦争行為を許すのかを明らにするものではない。また、テロルに対して「最後には善が勝つ」という単純な理念を人々が共有するならば、戦争に動員された武力行使のエネルギーは、かえって抑止不可能になるだろう。反テロリズムの戦争において、悪に対する善の勝利という単純な図式は通用しない。この図式では、軍事行為の続行に倫理的な歯止めがかからない。重要なことは、短期的な目標を定めて、「戦争の一旦終了」を具体的にイメージし、それに合意を得ることであろう。例えば、テロ組織の資金を絶つことや、アフガニスタンにおけるタリバン軍およびアルカイダのアジトを破壊すること、あるいは、アフガニスタンにおける市民の武器保有を廃止することなどに、目標を限定することが考えられる。それ以外の問題、例えばアルカイダ組織の完全な抹消であるとか、アフガニスタンの治安維持といった問題は、今回の戦争とは一応区別して対処することができる。正義とは、戦争行為が限定的な意義しかもちえない社会を実現することであり、戦争の範囲をめぐって、正当な手続きを経て具体的な合意に達することである。世界の全面的な戦争においては、通常の正義概念は通用しなくなる。避けるべきはそのような正義感覚の麻痺状態である。

 およそ軍事限定的アプローチは以上のように考える。しかし、人々が達した合意内容は、なおその可謬性と可変性を免れていない。はげしく変化する状況の下では、目標を柔軟に解釈しなければならないという要求が生まれてくる。また戦争においては、客観的な情報が行き渡ることがなく、個々の軍事的行動を的確に判断することが難しい。武力行為を限定するための正義理念は、武力行使を行う当事主体に対する具体的な規律や基準となりえても、必要な情報の欠如した外部の主体は、正義に関する思慮深い判断力を行使することができない。外部の人々(民主主義の主体)は、情報が欠如した環境の下で、軍事当事主体の行動に対する懐疑と批判の態度を示すことしかできなくなる。少なくともそのような形でしか、一貫性のある政治的行動を示すことができなくなる。こうして外部の人々は、政治的判断力を行使するための情報基盤の欠如から、戦争の正義というものに対して、全面で感情的な批判をなげかけるようになるかもしれない。正義に関する合意を達成すべき民主主義の主体は、戦争当事主体との情報の落差から、正義理念の実効的な合意内容に対して懐疑的にならざるをえない。ある意味で戦争の本質とは、情報の落差にある。戦争における具体的な正義の行使は可能であるが、しかしそれは常に不確実で裁量の余地があり、人々の判断力を攪乱してしまう。それゆえ軍事限定的アプローチが掲げる戦争限定のための正義という考え方にも、認知的・実効的な限界が伴っている。

現実政治の観点から言えば、われわれはそれでもなお、戦争を有効に限定する方途を模索しなければならないだろう。重要なことは、正義という理念的要求を、その都度いっそう具体化していくという努力である。戦争における正義の原理というものは存在しうる。例えば、軍事的ターゲットは市民と軍人の区別を明確に分けて設定すること、必要以上に軍事力を用いてはならないこと、人道的見地から敵を処遇しなければならないこと、非軍事的手段で間に合うならば軍事的手段を用いる必然性はないということ、敵の軍隊の家族は犯罪者として扱わないこと、などの要求である。こうした基準をよりいっそう具体化し、また戦争の範囲について合意を調達していくならば、私たちは戦争を限定する仕方について有効な基準を持ちうるであろう。とりわけ、捕虜に対する軍事裁判をめぐる法的正義の行使については、かなり明確なかたちで民主的に議論しうるであろう。実際、アメリカにおける戦争批判の言説は、現在この問題に集中している。次に、軍事裁判における正義という問題について検討してみたい。

 

 

【軍事裁判に対する批判と擁護】

 軍事関係を専門とする法律専門家たちのあいだでは、アメリカ政府の軍事裁判に対する批判の声があがっている。テロ事件後に通過した「アッシュクラフト法案」は、戦争捕虜に対する国際法であるジュネーブ協定(1949)に違背する。もしアメリカが国際協定を破って軍事裁判を行うならば、それはかえって世界各国の非難を招き、また海外に駐在するアメリカ兵士たちの生命を危険にさらすことになるだろう。アメリカに敵対する諸国、例えば、リビア、イラク、シリア、キューバなどでは、アメリカ兵士を軍事裁判にかける可能性がある。国防省はアメリカがジュネーブ協定を破ってはいないと述べているが、しかしアッシュクラフト法案のどこまでがジュネーブ協定と両立するのかは定かでない。ブッシュ大統領は1129日にテロリストたちを「無法者の闘士たち」と呼んだが、アメリカ兵士たちが他国でそのように呼ばれることも十分に起こりうる。軍部の法律学校で教えた経験をもつジョーダン・ポウスト教授(ハウストン大学University of Houston Law Center)は、軍事裁判を認める今回の法案に対して、「大統領がしていることは、ある種のテロリズムを合法化することである」と批判している。なるほど確かに、アメリカの軍事裁判はジュネーブ協定に違反する。例えば、ジュネーブ協定によれば、戦争捕虜が独立した公平な裁判を受ける権利や上訴する権利が認められているが、大統領の法令では、最終的な決断は大統領自身にゆだねられている。またジュネーブ協定では死刑判決は満場一致でなければならないが、大統領の法令では、三分の二という多数決で死刑を執行することができる(New York Times 2001/12/26)

またこの他にも、アッシュクラフト法案は、以下の事柄をなしうる点に問題をはらんでいる。すなわち、最近アメリカに入国した中東出身者を拘留し、尋問を延長すること。イスラム教徒に対するビザの認可プロセスを遅らせること。連邦政府によって拘留されている人々と弁護士の間のやりとりを傍受すること。テロリズムの罪で告発された非アメリカ市民は、アメリカ国内外、あるいは軍艦の中でさえ審理されうるということ。法廷につれてこられた容疑者は、州、連邦、海外の、あるいは国際的ないかなる裁判所においても、補償を求める権利をもたないこと。被告人は、アメリカ人の容疑者やアメリカの国益を攻撃する容疑者を含みうること。容疑者を秘密裏に、公開の調査なく、留置し審理することができるということ。「情報の自由に関する法律」(政府情報の原則的公開を定めるもの;略称FOIA)が適用されないこと。司法による再審を経ずに、死刑を含むどのような刑をも実施しうること。法廷は、アメリカの地方裁判所で用いられている法の原理および証拠の諸原則に従う必要がないということ。この行政命令には明白な期限が設けられていないこと、等々である(雑誌Village Voice, November 27, 2001, p.38.を参照)。

 以上のような事柄を許可する法令は、しかしあまりにも暴力的であり、テロリズムに対する公正な対処法とはいえないであろう。実際アメリカ政府も、しだいにその問題性に気づいてきたようであり、現在、法令の執行に関しては、一定のガイドラインを設ける方向で検討をはじめている。1228日のニューヨーク・タイムズによれば、軍事裁判における死刑の執行は「満場一致の合意がなければならない」というガイドラインの草案が示された。さらに、被告の上訴を認め、軍事法律家ではない一般の法律家を雇うことができる、ということも示された。しかし草案には問題もある。ハーバード大学のローレンス・トライブ教授によれば、裁判における上訴が認められるとしても、裁判で判決をする人たちが軍部を中心とする実行委員会に限定されるのであれば、ほとんど何も変わらないことになる。また人権問題に詳しいイェール大学のハロルド・コー教授によれば、起訴のプロセスそれ自体は、誰が起訴されるべきであるかを決めるものではない。重要な議論は、誰が軍事裁判で裁かれ、誰が通常の裁判で裁かれるのかについてである。ガイドラインはこの点を明確にしていない。またガイドラインは、アド・ホックに後から追加したものである以上、それは一定の望ましい結果を出すためのご都合主義的なものにならざるをえない(NYT 2001/12/29)。そもそも、テロ事件後にアメリカがジュネーブ協定に違反する法令を成立させたこと自体がすでに問題なのであり、アメリカは現在、新しい法律の運営をめぐって、さまざまな批判と懐疑にさらされている。

 これに対してニューヨーク・タイムズの社説は、アッシュクラフト法案がたとえ国際協定を破るとしても、これを擁護しうるという議論を展開している(NYT 2001/12/31)。それによると、アッシュクラフト法案に対する法律家たちの批判は、戦争の観念に関する重大な誤解に基づいている。なるほどアフガニスタンとアメリカはいずれも、一九四九年のジュネーブ協定に参加しており、戦争捕虜の基本的な取り扱いについてはすでに合意がある。しかしこの国際協定が適用されるためには、兵士が法を遵守する人間でなければならない。つまり兵士たちはまったくの無法者であってはならない。しかし以下の四つの点で、とりわけアルカイダの兵士に対しては、ジュネーブ協定を適用することができない。第一に、彼らは組織立った命令体系の一部として活動しているのではなく、戦争犯罪のすべてを幹部の責任に負わせることはできない。第二に、彼らは明確に識別できる軍服を着ておらず、一般市民を装って反撃してくるかもしれないという恐怖がある。第三に、彼らは捕らえられても兵器を隠し持っているかもしれない。第四に、彼らは兵士ではなくテロリストであり、戦争のルールを遵守する感覚がないかもしれない。以上の四つの理由から、アルカイダのメンバーおよびタリバン軍に対しては、ジュネーブ協定を遵守する必要がない。彼らに対しては、戦争法を適用したり、十分な保護を要求したりすることは適切でない。歴史的にみても、無法な兵士たちの運命は残忍かつ野蛮なものであったのであり、今回も例外ではないだろう。それゆえテロリズムに対する戦争は、通常の戦争法の適用を免れる、というのである。

 さて以上の主張は、根本的な問題を投げかけている。「相手がテロリストであれば従来の戦争における正義の法を守る必要がない」ということになれば、アメリカの掲げる反テロリズム戦争は「正しい戦争」たりえないであろう。いったい私たちは、テロ行為に対しては「正義なきテロ戦争」によって報復すべきなのだろうか。軍事裁判をめぐる正義の問題は、「無法者に対しては無法を」という否定的かつ最悪な意味での正義理念が通用する可能性を提起している。しかし実際にそうした軍事行為をアメリカが実行するのかどうかについては、国際世論や国内の世論にも大きく依存するだろう。戦争における正義の実効性は、情報の落差だけでなく、帰結主義的な政治的配慮にも強く依存せざるをえない。言い換えれば、危機における正義の具体的内容は、今後の世界秩序に関する一定の社会観ないしイデオロギーに大きく依存する。終末論的なテロリズムとの関係でわれわれが考察すべきは、とりわけアメリカの帝国主義的な政策をどのように評価するかという問題であろう。すでにアフガニスタンに対するイギリス=アメリカ同盟軍の攻撃は、タリバン政権を事実上の崩壊に至らせた。では、今後のアフガニスタンおよび他の中東諸国において必要な政治的施策とは何か。反テロリズム戦争における正義の理念を考えるためにも、最後にこの問題を考察しなければならない。

 

 

【中東社会の多元的近代化】

 反テロリズム戦争を制限するための「正義」の要求は、タリバン政権とアルカイダに対するアメリカ主導の戦争がどの程度まで容易に成功しうるのか、という軍事技術の問題に依存するだけでなく、今後アメリカがタリバン政権崩壊後のアフガニスタンや中東諸国に対してどの程度まで積極的に介入するか、という帝国主義的政策方針にも依存する。テロ事件の犯人を捕らえるだけでなく、「テロリズムの温床を撲滅する」というアメリカの戦争目標は、今後のアフガニスタン統治、あるいはまた、イスラム世界全体の近代化を促すことによってテロリズムを抑止するという、世界秩序の未来構想にも相関している。アメリカ主導の積極的な世界秩序構想を承認する立場からすれば、今回の戦争は、イランや北朝鮮に対しても拡大していくことが正当化されよう。そして「戦争の正義」という名のもとに、各国の一般市民を犠牲にすることが容易に正当化されるであろう。反対に、アメリカがまったくの消極的立場をとるならば、それは戦争の正義をまったく認めず、テロリズムがもたらした恐怖を受忍するということになるだろう。

 はたしてわれわれは、タリバン政権崩壊後の世界に対して、アメリカの帝国主義化に基づく平和維持という世界構想を認めるべきであろうか。とりわけイスラム・ファンダメンタリズムに起因するテロリズムを抑止するために、中東諸国における自由民主化、近代化および平和維持という社会秩序上の改革を、アメリカ主導で行うべきであろうか。現在アメリカでは、「アメリカの帝国主義化」という問題をめぐって、賛否両論が提出されている。一方では、積極的な帝国主義的介入を推進するタカ派の意見があり、他方では介入を極力抑えるべきだとする穏当な意見がある。前者の意見はとりわけ保守派の人々によって代表され、後者の意見はとりわけ非西洋の諸文化を代弁する知識人たち(文化人類学者など)によって代表される。以下では、アメリカによるとりわけ中東諸国への積極的介入という問題について考えてみたい。

バーナード・ルイスやエリオット・コーエンといった論客は、帝国主義化を推進する立場から、およそ次のように論じている。いったい戦争において、「誰」に対して闘っているのかは明確でも、「何」に対して闘っているのかはしばしば明らかではない。現在、アメリカが闘っている敵は、イスラム過激派組織、すなわちアルカイダのメンバーたちである。しかし、アメリカが何を求めて闘っているのかについては解釈の余地がある。最も狭義の解釈は、「健全で正気の宗教的・国家的共同体から分裂した、非合法の狂気の団体を破壊すること」であろう。この解釈は、なるほど当面の間は戦争の正しい目標として有効であるが、しかし戦争の最終目標としては有効ではない。というのも、事件を起こしたテロ組織アルカイダは、西洋社会に対する嫌悪と憤怒をかき立て、アラブ・イスラム社会に大きな反米運動をもたらしたのであり、そうした嫌悪と憤怒は、アメリカに対するさらなるテロ攻撃の可能性をもたらしているからである。すでにオサマ・ビン・ラディンはイスラム社会において英雄化されており、彼を正当に処罰したとしても、反米感情にもとづくテロリズムの再生産という問題は残る。事実、今後警戒しなければならないのは、テロリズムの国際的な転移現象であり、ビン・ラディンの業績を乗り越えようとするテロ攻撃の過激化競争である。それゆえ、ごく一部のイスラム狂信主義者たちだけを非合法として罰することは、十分なテロ対策ではない。反テロリズム戦争は、中東における反米感情を解消することによってはじめて成功するのであり、そのためには中東諸国に対して、積極的な介入、とりわけ近代化と民主主義の導入を介助しなければならないであろう。

しかしいったい、アメリカはその帝国主義的介入を拡大することに危険はないのだろうか。歴史的にみれば、アメリカのヘゲモニーは、「帝国」という統治形態の衰退のなかで成立した。フランス、イギリス、オーストリア=ハンガリー、ソビエト、オスマンなどはすべて、周辺地域に対する王朝支配を追求したのに対して、アメリカは自由と基本的人権の理念を掲げ、領土に対するハードな支配を避けてきた。例えば一九九一年、湾岸戦争にアメリカが勝利したとき、アメリカはイラクの首都バグダッドに進攻し、サダム・フセイン政権を崩壊させることもできたであろう。そしてイラクに親米政権を樹立することもできたであろう。また一九九四年に少数民族のクルド族がサダム・フセインによって虐げられたとき、アメリカはクルド族のための「安全地帯」を設けることには協力したが、その地帯においてイラクの反体制派とクルド族が民主主義の政体を作るという計画には協力しなかった。アメリカはこのように、積極な介入を避け、ただその圧倒的なパワーを見せつけることに終始してきた。しかしある意味で、こうした控えめな態度が今回のテロ事件の原因となったのであり、アメリカの非介入政策それ自体が、中東におけるテロリストと独裁者の両方をのさばらせている。問題は、アメリカは潜在的な大きなパワーを持っているにもかかわらず、なぜ適切な行使をしないのか、という点にある。推進派に従えば、アメリカは今後、帝国としての自覚と責任をもち、「西洋中心主義」と呼ばれることを恐れず、中東諸国の自由民主化と近代化を援助していかなければならないという。

 無論、アメリカの帝国主義的世界支配もまた、ローマ帝国やビザンチン帝国と同様に、衰退する運命にあるのかもしれない。帝国による支配は、一方では世界に平和と秩序をもたらすが、他方では外国による支配という統治上の問題をはらんでいる。しかし例えば、第二次世界大戦以降、化学兵器を用いた戦争の多くは中東で生じている。イエメンにおけるナッサー(1960s)、チャドにおけるカダフィー(1987)、そしてフセインによるイラン攻撃およびイラク国内における紛争において、少なくとも五千人が化学兵器の犠牲になったと推定されている。アメリカはこうした紛争に対して、帝国主義的と呼ばれることを恐れずに介入すべきではないか。たとえその支配がいずれ衰退する運命にあるとしてもである。また、とりわけ中東諸国に対しては、たんなる紛争解決だけでなく、近代化を介助するためのさまざまな社会政策(安全確保・教育・医療・経済支援・都市基盤の整備など)が必要である。中東における反米感情は、現実にアメリカが行使している権力に対するものではなく、アメリカが潜在的にもっている権力の諸源泉、すなわち自由と豊かさにある。人々の実際の不満は、アメリカが帝国主義的な諸政策を引き受けないこと、つまり諸々の近代化政策によって、彼らの生活を貧困から救うという責任を引き受けないことにある。アメリカの積極的な介入によって中東諸国が近代化へ向かうならば、アメリカに対する反感は減少するはずである。

およそ帝国主義の推進派は、以上のように主張する。これに対して、ジョン・ロイドが寄せたフィナンシャル・タイムズの週末論評(FT 2001/12/08)は、正反対の立場を代表している。この論評によれば、テロ事件以降、途上国の多くの人々はアメリカをダース・ベーダーに見立てているという。すなわち、顔のみえない巨大な父性権力、信条に満ちた若者たちが対抗すべき悪の代表格としてのアメリカである。なるほど途上国の人々は、多かれ少なかれ近代的な生活への憧れを抱いている。しかし近代化に成功した諸国、とりわけアメリカが、アフガニスタンに対して「よりよい暮らし」というものを独裁的な仕方で提供するならば、人々はやがてその統治のあり方に反逆しはじめるであろう。西洋社会にとって、近代化とはなによりも市民権と民主主義の確立を意味するが、しかしテロ事件以降、西洋社会を「悪の帝国」であるとみなすようになった諸社会においては、近代化の過程において、たとえ不完全ではあっても、西洋の合理主義や自由主義とは別の何かが、社会秩序の基盤に設立されなければならない。なぜなら、社会理念において何もオルターナティヴがないという閉塞状況は、さらなるテロリズムを生み出す条件となるからである。別の角度から言えば、もし中東諸国の近代化を自生的なプロセスにまかせて、政治以外の影響、すなわち市場経済とマス・カルチャー(とりわけハリウッド文化)を導入するならば、それは道徳的・文化的にアナーキーな世界をもたらし、伝統的な文化を侵食していくであろう。そして人々の文化的自尊心の基盤を奪う近代化のプロセスは、その反動としての狂信的原理主義を生み出すであろう。したがって中東諸国が近代的なシステムを導入する際には、同時に伝統文化を維持・発展させていくための政策が必要である。

およそ以上のように、穏当派は近代化のプロセスにおける文化的共存の可能性を強調している。帝国主義化を推進するタカ派の意見と対比するならば、穏当派の意見は、途上国に対するより利他的な関心に基づいているようにみえるだろう。しかしどうであろうか。アメリカの帝国主義的介入は、アメリカの国益になるというよりも、最終的には、そのコストが高くつくかもしれない。近代化の過程は、さまざまな反動勢力を生じさせるであろうし、そしてそれらに対する対処は、多くの犠牲を払うことになるであろう。これに対して、ソフトな文化理解を主張する穏当派の見解は、なるほど支配に伴う高いコストを避けうるとしても、産油国との利害関係を直接代弁するという政治的犠牲を払っている。すなわち穏当な見解は、中東諸国の独裁政権を容認し、アメリカが石油資源を安定的かつ安価に購買するための口実を与えることになり、政治的には大きな問題を回避しているのである。

このように外交政策の理念と国益の関係は、パラドキシカルである。一見すると自国中心主義に見える帝国主義的見解は、世界の平和維持という利他的な関心を内包している。これに対して、一見すると利他的に見える穏当な文化理解の立場は、中東におけるアメリカの経済的利権を代弁するという利己的関心を内包している。これら二つの見解はいずれも、実効性の観点から見て危険である。積極派の見解は、もしそれがアメリカの軍事的攻撃を正当化するために「近代化」の理念を用いるのであれば、危険な軍事思想に他ならない。また穏当派の見解は、もしそれがアメリカニズムの経済文化よりも中東諸国の独裁制を評価するのであれば、倒錯した道徳批判に他ならない。はたしてわれわれは、中東(さしあたってアフガニスタン)の近代化という理念を、アメリカの帝国主義化という理念と切り離して、適切に議論しうるだろうか。また、中東諸国とりわけアフガニスタンに対して、アメリカ主導ではない多元的・複生的な近代化の種をまくことは可能だろうか。例えば、マクドナルドとハリウッドが文化的支配力をもつような事態を避けることはできるであろうか。あるいは、アメリカの介入を制約しつつ、アフガニスタンの民主的統治を促すことは可能であろうか。目下問われるべきは、軍事的攻撃の範囲を拡大せずに、またアメリカニズムの文化的支配を避けつつ、多元的な価値に基づく近代化のプロセスをはぐくむという政治的企図である。およそ自害を恐れない終末論的なテロリズムを生み出してきた社会に対しては、「終末」というビジョンを解除し、未来へ投企するための諸政策が企てられなければならない。およそアメリカ批判の世界的高揚が積極的な成果に結びつくためにも、多元的近代化のビジョンが求められている。

 

 

〈本稿を書く上でとりわけ参考になった文献〉

Michael Walzer, “Excusing terror: the politics of ideological apology,” in The American Prospect, Oct. 22, 2001.

Rechard Falk, “Defining a Just War,” in Nation, Oct. 29, 2001.

Bernard Lewis, “Did you say ‘American Imperialism’?: Power, weakness, and choices in the Middle East,” in National Review, Dec. 17, 2001.

Eliot A. Cohen, “A Strange War,” in The National Interest, No.65-S (Special Issue), Thanksgiving, 2001.

〈追記〉テロ事件後の世界に関する考察について、以下の拙論を参照されたい。

橋本努[2001a]「防衛本能による認識」インターコミュニケーション、No.39, Winter 2002, pp.158-160.

橋本努[2001b]「アメリカが持つヘゲモニーの再編」理戦、No.67, Winter 2001, pp.50-66.

 

(はしもとつとむ1967- 北海道大学大学院助教授/ニューヨーク大学客員研究員 『自由の論法――ポパー・ミーゼス・ハイエク』創文社、『社会科学の人間学――自由主義のプロジェクト』勁草書房)